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過去の記事2007


2007年 12月15日 「大好きなイエスのように歩みたい」
2007年  7月31日 「バトンタッチ ICBCは新体制」
2007年  7月13日 「ぜひ読んで欲しいこの一冊」
2007年  5月29日 「これから牧師になる人には人格テストをしたら?」
2007年  4月 9日 「社会に出られない教会内ひきこもり」

2007年 12月15日 「大好きなイエスのように歩みたい」

オレはなんでイエスが好きなんだろう?
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(1)律法からの解放
イエスは近づいてくる人々をユダヤ教の束縛から救い出し、ご自分の父の元に導いていた。ユダヤ教は神を教えながら、神を知らなかった。先祖たちの言い伝えを守っているだけにすぎなかった。

しかし、イエスは律法のかたちを守ることよりも、人を愛した。かたちなんかにこだわってない。人が大切。天の父は人が大切。オレをありのまま、条件なしで受け入れてくれている。だから、素の自分を出せるのだ。

イエスは型作りから脱出させてくれ、父の守りの中での自由(なんの束縛も受けず自分で選択する権利)を提供してくれた。Jesusかっこい〜〜い!
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現代人も数々の律法に縛られて苦しんでいる。なんで苦しんでいるか?それは無意味な罪悪感である。罪悪感は正しく良心が機能している場合にのみ価値があるが、律法を持つと、人は身動きの取れない宗教人となる。

律法でおかしくなっている人は、ピラミッド型組織から影響を受けたからだ。人を大事にしない家庭、縦型教会、縦型社会から縛りをもらってしまった。


(2) 価値観の変革
イエスは偉い人とはどんな人か、考え方を根底から変えてくれた。偉い人は王様、権力者、支配者だと思っていたのを仕える人、低くなる人、モデルとして生きる人にした。Jesusかっこい〜〜い!

偉い人なんか、神以外にいないんだよ。誰も偉くなんかない。オレもあなたも偉くなんかない。大会社の社長も、有名大学の教授も、大きな教会の牧師なんてなおさらのこと、偉くなんかない。みんな横並びだよ。
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(3)売春婦、酒税人、罪人たちとパーティを楽しんだ。
過去の偉い人は、同じく偉い人とだけ同等に食事をした。当時の貧しい時代の中で、そういう人たちはかなりいいもの食っていたんだろうね。

そういう人たちは、収税人、罪人たちと一線を引いていた。でも、Jesusかっこい〜〜い!売春婦、収税人、罪人たちと飲み食いしていたんだから、うっとりしちゃうよ。だ〜〜い好き。

ユダヤ教の聖なる人たちは、Jesusを見下し非難して、だから オレたちの方が正しいと自己満足していた。今の教会もこういう過ちをしていないかな???どっちが聖なる人だと思う?オレの考えでは、人を地位や名誉で分け隔 てせず、そのレベルまで下がって愛したJesusこそが、聖なる人だと思うんだけど、、、。 聖なる人の定義を変えないといかんね。
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聖でも、そうでなくてもいい。そんなのどうでもいい。現代人はみんなさみしく、心は泣いているよ。自分のプライドなんかどうでもいいじゃんか。彼らを愛して心の中に入って行きたいよね。










2007年 7月31日 「バトンタッチ ICBCは新体制」


7月29日は30周年記念礼拝だった。そこで正式に雄くんをICBCの主任に任命し、ジョシーはICBCの中心的立場から身を引いた。とは言っても実質はもっともっと前からいろいろな部分で権威分与してきたので、目的は目に見えるかたちでのバトッタッチの意味だ。
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蒲郡の大塚で教会開拓を始めたのは1977年7月だった。それは長女の立子が生まれた年だった。24歳と若かったので、年配者ではなく、中高大学生中心の教会作りをしようと決めていた。

実際、中高生中心の大きな群れができあがった。あの頃から自分自身の心の中にあることはそんなに変わらない。まとめてみると、

1.いつも若者中心の教会を作りたいこと
2.本物を追求し続けること
  そして、この10数年の間に心に迫ってきていたこととして、
3.傷付いている日本の癒しに関わること
4.イエスのように生きる人々のネットワーク作り(本物の教会)
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もともと按手礼という儀式に権威をもたらすことに対しては興味を抱かなかった。だから今回も按手礼としてではなく、ユキ、遠藤、そして私は雄くんに手を置いて、神からの祝福と油注ぎを求めて祈った。

<新しいリーダーシップのモデル>
雄くんは30代前半。新しいICBCの牧師体制は雄くんを主任として、うちら年上の三人が支え守るかたちだ。この体制はイエスの教える価値観とぴったり合致する。

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ある人が話しかけてきた。 「三人とも誰もプライドは傷付かないんですか?」 「そういう人間は誰も牧師になれないよ。」

今の一般的な日本の教会体制だと、後継者が十分育てられていないために主任牧師はいつまでもやめられない。またはやめようとしない。


後継者というのは、父性がないと生まれてこないって知ってる?愛とやさしさと正直さがないと後継者は育たないのである。何処からか適当な人物を探してきて、自分の下に配置しても無理である。

<サイバーネットワーク&チャーチ>
今日の最後に、私がこれから何をしようとしているか簡単に記してみる。 私の日本に対する思いは書ききれないので、簡単に書くよ。 (7/29のメッセージでもやはり簡単に語っているので聞いてみて!)
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http://www.icbc.net/message/index.html

● 日本を愛し、本質を持って本気で人々に仕えたい仲間でネットワーク&チャーチを起こす。多分みんなの頭が理解しにくいと思うことは、Webを教会(本物を求める能動的な生き方をしているキリストの体)と考えることだろうね。

● Webでは、チェンジングで教えていたスピリット、生き方に同意する人々だけで、世の中にいる羊たち(本物志向の人々)の心に届くために励まし合う居場所とする。

● Webの利点は、地域教会ができなかった場所の概念を打ち破ってくれることだ。日本を愛し、自ら教会となり、改革者となりたいと考えている人なら、時間と空間に束縛されず世界に散らばっている仲間とキリストを崇めるための交流を持つことが可能だ。

● 名称は「どアホな奴らのネットワーク」(Incredibly Crazy Community)キリストにある生き方で勝負したい人たちを求めるので、できる限り宗教っぽくしたくない。日本人は宗教アレルギーにかかっている。

簡単と言ったけど深く書いたかな。まあ、見ていてちょうだい。

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2007年 7月13日 「ぜひ読んで欲しいこの一冊」


私も今年の10月11日で35歳になる、と言いたいところだが、なんと55歳なんだよ。顔だけみたら35でも通ると思うのだが、現実は天国が少し近くなっている。年齢だけで、天国が近いわけではないが。。。写真1

何でもいいが、私が死ぬまでに日本に大変革が起きていると固く信じている。過去どこにもない新型のリバイバルだ。でも、今のキリスト教ではなく、人々が宗教と思えないライフスタイルを中心としたキリストが広まって行くと考えている。

フィジーなどをモデルとしたトランスフォーメーションの話題が一時期広まったが、あのリバイバルの原則は諸教会の一致だ。

日本で既存の教会が、たとい神のためだとしても一致するとはとても思えない。彼らにとって神よりも組織、教団、個人の名誉名声の方が大切だからだ。

日本にいる本物志向の人々(特に若者)を満足させるのは、キリストをモデルとした生き方だ。それは生き方であり、今日の一般的キリスト教とは違う。価値観を柱とした生き方であり、無条件の愛を基盤としている。
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価値観が崩壊している今日、人々のココロは愛に基づいた新しい価値観を求めている。カルト的な個性を認めようとしない宗教はもう新しい世代には魅力を感じない。

私は、宗教臭くなくシンプルで明解な新しいライフスタイルが日本に広がることを予測している。福音書に書かれているイエス・キリストのような魅力ある、かっこいい生き方が一部の本物志向の人たちに流行したらいい。これはイエスが行われたココロの革命、現代版だ。


写真3「レボリューション」を読んでみないか?私が考えていると同じことを考えている人類がアメリカに生まれてきているようだ。アメリカだけでない。全世界の教会は今変革期に入っている。神は仕事よりもココロを追い求める人たちに話しかけて、信者の基準を本質に戻そうとしているかなと思う。

あなたはどうするか?型にはまった生き方をしてきた人は、枠を外れて、もっと本質を求めようと思わない?どっちみち短い人生を生きるのなら、本物を生きたいと思わない?


 レボリューション書評

           本のご注文は地引網出版へ   リバイバル新聞に掲載された書評







2007年 5月29日 「これから牧師になる人には人格テストをしたら?」


今日は休みの日、のんびりしようと庭を散歩し、朝食をとる為に戻って、食卓に着くと電話が入った。家内が出てからすぐに「あなたよ。○○さんって知っている?」
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よくわからなかったが、電話で話しているうちに何となく誰の関係の人か分かってきた。今日時間を取って欲しいと言われたが、自分自身の時間を持ちたいので断って電話にしてもらった。
それにしても、聞いていて疲れる話しだった。簡単にまとめてみるとこんな感じだ。

相談してきたのは牧師(長老)の息子。昨日父が冷蔵庫を開いたら、野菜が腐っていた。それで怒り始め、お母さんに怒鳴り散らしていた。しかも2時間半もの間怒鳴ったあげく、今度は息子である彼のところに来て、怒鳴り散らしたというのだ。

彼は我慢できなくなり、飛びかかって暴力を振るおうとした。でも聖書に反すると思い、暴力を振るうことを思いとどめると、父は「お前は家に○○円しか入れてないくせに、偉そうな振る舞いをするな。この家はオレのものだ。出て行け!」と言われたそうだ。

父親は毎日曜にメッセージしているが、律法的な話しをするので人々は散ってしまったみたい。
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インディ(服部雄ちゃん)が、ひきこもりセラピストを希望する人の為の最初の登竜門として「スクリーンテスト」を定めた。3人以上のひきこもり回復者に個別審査してもらいセラピストに向いているかどうかを判断してもらう。

私は最初にそこを通過した人物であるが(とは言っても私のときは治った人が周りにいなかったので、何人かのひきこもり患者が私をテストした)、基本的には2つの条件をパスしないとカウンセラー訓練をしてもらえない。


(1)潜在的ひきこもりではないこと。つまり本音と建て前を使い分ける二重人格ではないこと。
現場でも家でも同じことを語り、共依存ではなく、本心を語っていることだ。簡単に言うと偽善者じゃなく、自然体で生きていると言っていいだろう。そしてその次に、

(2)アタッチメント(絆を作る)能力があることだ。相手を理解し、保護し、安心感が持てる信頼できる人物であること。母性、父性があり、人を人格的に育てられる人物であることだ。

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電話相談に乗り話を聞きながら、またこの話しかと思った。こういう話しは珍しいことではなく、よくあることだ。ただし隠れた情報として存在する。寺の坊さんや宗教家に関するこの手の話しもたくさん聞いたが、もっとえげつなく、しかも露骨だ。道徳の規準が全くないからであろう。

でもどっちも同じだと思う。私がこういう話しをするとき、完璧な人間でないといけないと言っているのではなく、正直になろうと言っているだけだ。

話しを戻そう。今は偽善にうんざりした時代であり、本物でないと通用しない時代だ。いや偽善でも偉い人であれば、文句を言わずに従う人たちもたくさんいるが、ある種の目覚めた人たちがどの業界にも存在し、正直な生き方、本質を生きることを心の底で求めている。

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これは私の提案であるが、これから牧師になる人は、スクリーンテストに似たものを受けるようにしてはどうだろうか?

3人以上の本物志向のクリスチャンと1時間ずつ個人的に面談を持つ。そしてその人たちに、この人が信頼できる人物かどうかを判断してもらうっていうのはどうだろう。同時にその人の周辺(友人か家族)からどういう人物かの情報を得るのもいいかも。

このスクリーンテストがあれば、神学校卒業の為の勉学だけが牧師になる為の目標ではなくなり、人格を整えることが牧師になる前の一番の目標になるので、キリスト教会の評判はぐいぐい上がるに違いない。

教会の数はそんなに増えないが、真の教会が国で栄えるという点を考えると一つの希望が持てるアイデアであると思わないだろうか?そうすれば、心に傷を持った人たちは、人格的に整えられる為に、あらゆる努力をして癒しと解放を受けるようになるだろう。

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聖書をたくみに語っていても生きてない者には心に伝わってくるものがない。語れるかではなくて、生きているかである。その生きた人になる為には無条件で愛し理解してくれる人物と天のパパに個人的に出会う必要がある。

変えられた証を持っている人には力と魅力がある。

待って!何でそこに人間が入るの?という人がいるだろう。

人を入れてはいけないだろうか?神は人が天のパパを現すように計画された。イエスは父を現すためにこの世に来た。私たちの心の中にイエスが宿るようになった理由も、天のパパを私たちが現すようになるためだった。

「人を見てはいけない。天だけ見上げるべきだ。」という言葉は一見霊的に聞こえるが、残念ながらモデルになる人が周りにいないときに、諦めムードで言う言葉だ。聖書は神だけで活動されないと教えている。神は人を通して働かれることを願われる。
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横道に逸れてしまったが、私はこう思う。牧師になるような人物は、現場から生まれてくるはずだ。現場でそのような人物を見つけたなら、その人を牧師にしたらいい。牧師をすでにしているので、牧師に任命するのである。神学校に行くか行かないかは、ニーズに基づいて牧師になる本人が決めればいい。


 







2007年 4月9日 「社会に出られない教会内ひきこもり」

写真1
先日久しぶりに地域の牧師会に出た。びっくりした。なぜならみんなが本心を話すようになっていたので、居心地がよかった。ここまで親密になれたのは、セル的な雰囲気が浸透したからだ。それぞれがそれぞれの働きを尊重している。ここまでいい仲間になれたことを感謝している。

さて今日話したいことは、そこでのひとつの分かち合いに関してだ。

ある牧師が自分の教会の若者たちが社会に出て働くことができず、教会だけの交流を楽しんでいるのが問題だと告白した。いわゆるニートだ。

彼らの親たちはクリスチャンで、小さい時から教会以外の交流を持たせないようにしてきた。それによって社会への適応障害、教会内ひきこもりとなってしまった。彼らは子どもの時から付き合っている仲間たちとの人間関係を乗り越えて、外の人々と人間関係を持つことができない人たちだ。

写真2そういえば私の牧会生活でも過去に中学生たちが日曜日に部活に行かないように奨励していた時があった。何があっても礼拝に来ないと霊的ではない雰囲気の時代もあった。

しかし、あの頃の教会は非常に伝道的で、街に出かけてはいろいろな人々に関わろうとしていた、つまり外向きであったので、社会に対する適応障害なるものからは免れた。

子どもたちが自分の信仰として日曜日を聖別したいのならばそれでよいが、運動が好きで部活に行きたいと言うならば学校の中で神の価値観を持って生きることを励ます方が彼らの傷にならないし、自分の意思を尊重してくれた親と教会指導者を尊敬するに違いない。

写真3
子どもたちを教会という枠の中だけで生活させていると教会内ひきこもりになり、いずれ社会の人々に対して対人恐怖を持って生きることになる。

子どもたちを教会内ひきこもり、ニート、社会での適応障害にさせないためにも、もう一度根底から考え直すべきではなかろうか?


その牧師が告白した言葉の中に考えなければならないことがもう2点ある。就職しない子どもたちに向かって親たちが批判し始めているので、子どもたちは教会という居場所も失いかけていること。ある子どもたちは、社会に出たくないので神学校に行って牧師になりたいと言い出していると言う。牧師は気楽な職業だと思っているらしい。

もし、牧師という働きが、社会で適応できない者たちの隠れ蓑になる可能性があったならば、今日の牧師たちの中に、社会性のない人たちがいるはずだ。会社に入って主を証しする自信がない為に、牧師という職業を選んでいたとしたら、その傘の下にいる信者たちは、養われる可能性がないということだ。

写真4
もうひとつ今回オレが話題にしたいことは、霊的という意味を再点検すべきではないか?という点だ

「この世と調子を合わせてはいけません。」という意味は、「この世の価値観に合わせてはいけません。」という意味で、「未信者の友達と関わりを持つな!」と言っているのではない。

もしこのみ言葉を、社会性がない自分自身が社会に出て行かないための隠れ蓑にしているなら、悔い改めるべきではないか?そうしなければ、教会はひきこもりの館になってしまう。教会は神を愛し、隣人を愛していくコミユニティのはずだ。

イエスがいつも外に出て心の貧しい人たちに近づいて行ったあのモデルを思い出そう。使徒時代の教会が自分たちだけで固まろうとした時神は迫害を許すことで信者たちを世の中に散らされことを思い出そう。
 





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