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過去の記事 2006

2006年12月28日 「愛の神を知っているだろうか」 ジョシー
2006年10月15日 「献身の意味―大いなる勘違い」 ジョシー
2006年 9月 2日 「解放からみたひきこもり治療」 キャーマン
2006年 8月 4日 「天パパの心を少し理解できたかなと思う」  ジョシー
2006年 6月24日 「ひきこもりと神の国」 楠葉キリスト教会牧師 遠藤明匡師
2006年 4月27日 「イエスと日本人」 服部雄一
2006年 3月12日 「神は時計の針を初代に戻そうとしておられる」 ジョシー
2006年 1月29日 「罪責感」 ヨハネ21章 ジョシー





2006年 12月28日 「愛の神を知っているだろうか」 石原良人

写真1

カウンセリングしているせいか、

人の心がもっと見えるようになった。

心ってホントに奥が深い。  

心って、とても大切な存在。


神が一番大切にしているところ。

神を知ることは、神の心を知ることだよね。


イエスが天の父を表現するために来られたように

オレも天の父を表現するために生きたい。




知ってる?  天パパって、みんなが心で感じているよりも

もっと、

もっと、
写真2
もっと、

もっと、 も っ と 、優しいんだよ。

恐くなんかないんだよ。


怒ってなんかいないよ。  完璧主義じゃあないよ。

意地悪じゃあないよ。



イエスは天パパを現すために来られた。

どんな方か知っているかな?

売春婦が宗教家に引きずり出されて

いじめられているとき、

イエスはどうされたか覚えてる?

怒ってなんかないよ。

「あなたがたのうちで罪のない者が最初に彼女に石を投げなさい。」

 って言った後

地面に何を書きながら何を考えていたと思う?

この娘が売春をしているには理由がある。
写真3
かばおうとしたんだよ。


イエスは収税人たちをどう扱ったか知ってる?

近づいてくる彼らを受け入れて一緒に食事をしたよね。

怒ってなんかないよ。


イエスが怒った相手は、パリサイ人、律法学者たちだよ。

人を教えながら、自分を正当化し、他人を裁く人たち。

宗教家たちに対して、イエスは怒っていたよ。

偽善者たちにイエスは怒っていたよ。



イエスは優しい方。  気持ちを理解してくれる方。

オレたち弱い者を助けてくれる方。  イエスは天の父を現した。

天の父は正直な者たちに  めちゃ優しい方。




みんなの弱さに同情できない方じゃないよ。  自分の弱さを出したときに、

「あなたがそうなったには理由があるはず」って  言ってくれる。


写真4
カウンセリングで  みんなが弱さを出してくる。

オレは言うよ。

「あなたがそうしたには理由がある。」




助け主聖霊は、「そばにいて助ける方」の意味だよ。

天の父は、弱い私たちを助けてくれる。

でも、隠す人、自己正当化する人にはきびしい方。



ということで、神は正直者の神だ。

今日も、手を広げて待っているよ。


あなたは愛の神を知っているだろうか??





2006年 10月 15日 「献身の意味―大いなる勘違い」 石原良人

「一粒の麦がもし地に落ちて死ねば、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」 ヨハネ12:24

「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」ガラテヤ2:20
写真1
<共依存国家日本>
チェンジングライフキャンプの後半部分に「芯のある生活」というセッションがある。そこではこのようにアピールする。「自分の父、母、妻、兄弟、姉妹・・よりも」とは、共依存のセッションでみたように、子どもの気持ちを理解しない支配的な親に伝動ベルトがかけられていたために、親のみならず社会のあらゆる支配的なリーダー、人情に訴えかけてくる人の奴隷として生きることである。

イエスは二千年前にすでに共依存が献身の妨げになることを警告していた。そこではキリストだけの奴隷になる為に、親、兄弟、伴侶、恋人、上司、神ではなく自分に目を向けさせる偽りの指導者からかけられたベルトを外す祈りをする。でないと、私たちの信仰は神の御名を差し出しながら、偽りとなるからだ。私たちは天の父を現すものでありたい。

共依存とは、「偽りの自己犠牲」だ。彼らの特徴は「勘ぐり」「相手の顔色」「怒られないために先回りして働く」「NOが言えない」「人に合わせる」「自分がない」「本心を話すと人間関係が崩れると信じて行動」「おせっかい侵略者」「自分を隠した」「自分の気持ち、感情、本心が分からない」「恐れで行動する」「世間体人間」などであり、日本人の9割以上が共依存者と考えられる。
写真2
ソ連崩壊時に、世界で最も成功した社会主義国は日本であると語ったゴルバチョフを思い出さないか?スターリン、ブレジネフができなかったことを、日本はしているのだ。それも恐怖政治のためのリーダーを特別に用意したわけではない。浸透した共依存文化によって互いに監視し合い、縛り合ってきたのだ。


<献身の意味を再考察しよう>
 キリスト教関係者は、献身とは何か、神の前にひざまずいて御声を聞き直そうではないか?自分の教会が表面的にまとまるために、自分が変わらなくてもすむ一番簡単な方法は、管理教育、スパルタ式教育だ。共依存人間であるジャパニーズは、家の中で縦型教育をしてきたので、指導者に従うことが神の御心だと語れば、かたちだけはうまく行くかも知れない。ただしそれはパリサイ人を養成すると同じことになる。我々は本物の教会を作るために、ひざまずこう!
写真3

冒頭に2つの聖句を挙げた。新約聖書の2本柱とも言える親しみのある箇所だ。あなたは「死ぬ」という意味をどのようにとらえているだろうか?「死ぬ」という真理をどのように適用させたいだろうか?

皆さんのところでは問題ないと思うが、多くのキリスト者が「一粒の麦が死ぬ」「キリストと共に死ぬ」意味を、「もっと強い共依存者になれ!」と解釈していた。信じられない。指導者は神への献身という名目で、自分への忠誠を誓って欲しく、これらの聖書箇所を悪用していたということだ。

その結果として、クリスチャンは「苦しいちゃん」になっていた。内なる人はますます衰え、嫌われないための世間体重視の表面人格が強くなっていった。この人格は偽物で、もともと親に受けとめてもらうために良い子にみせようと幼児期にはじめた偽人格だ。表人格とは嫌われないために、怒られないために、良く思われたいために、作り上げてきた人格のことだ。ひきこもりとは、この表人格と本人格の二重人格構造になっている状態のことで、本人格は心の深い部分にあるシェルターの中に逃げ隠れている。
写真4
新約時代のユダヤ教徒は解離まではしていないが、日本人のように二重の心を持っていた。表人格は律法主義者、完璧主義者、世間体人間だ。キリストは表人格について、「人に見せるために人前で善行しないように気をつけなさい。」(マタイ6:1)「偽善者たちのよう」(6:5)と解き明かした。「祈るときには奥まった部屋に入りなさい。」(6:6)と言われたのは、人前だと表人格が働いて見栄に出るので、人がいないところで祈るように言われた。一人ならば、本心、本人格(内なる人)で、神の前に出られるからだ。

本人格のことをパウロは「内なる人」と呼び、「あなたがたの内なる人を強くしてくださるように。」(エペソ3:16)と祈っている。日本人の内なる人は、つぶされて土に埋められた状態の人が多いと今は分かっている。

今日の中心テーマに戻りたい。「献身」とは、神とその御心(みことば)への献身であり、それ以外の何ものでもない。必要以上の管理、統率はいらない。ひとり一人には助け主がいて、その方が父の御心をひとり一人に教えられる(ヨハネ14-16章)。人は心配しなくても、聖霊と個人個人を信頼すれば、神の御業は進むのだ。人は神の働きを邪魔すべきでない。自然体で生きよう。





 

2006年9月2日 「解放からみたひきこもり治療」 キャーマン

写真1 妻が潜在的ひきこもりであることがわかり、治療を受け始めて4ヶ月になる。治療が進むにつれて、マインドの中に植えられた偽りの価値観が、親子の絆の喪失(服部さんの言葉ではアタッチメント・トラウマ)を原因としていることがよく理解できた。そして、その結果として感情的に、あるいは社会的にもひきこもるという現象を生んでいるのだと。

マインドの中に入り込んだ、偽りの価値観、ウソ情報については、チェンジングライフ・キャンプ(キリスト者を養育して働き人となるのを助ける短期リトリート)でも扱っているのだが、ある人は多少スッキリした程度で、あまり劇的な変化を体験できなかったり、変化を体験したとしても、キャンプ後にまた元の古い価値観(ウソ情報)に戻って苦しんだりということが実際にあった。

何をしても、思いつく限りのことをしても変わらない現実。原因は告白していない罪か、家系の問題か、地域の問題か・・・神様に尋ねてスッキリと解放されない原因を探してみてもわからないことがある。ある意味で、霊的解放の限界にも似た感覚を味わっていたのである。

そんなとき、ジョシーと服部さんの出会いをきっかけに、ひきこもりの原因であるアタッチメント・トラウマ(親子間の絆喪失)を知るようになる。幼い頃、両親から愛を受けられず、感情を無視される、ありのままで認められない、心のケアに関心をもってもらえないなどの体験から、愛されることを諦めてしまい、本心で人と関わることを放棄してしまった人々が、本心を閉じ込め、本心とは別の、世間で生きていくための表向き人格を徐々に形成していくことになる。つまり、人格の二重構造状態がひきこもりというのである。
写真2
私の妻は、実際に潜在的ひきこもりの治療を通して、心の奥底に閉じ込めていた(ひきこもっていた)本心をもう一度取り出し、絆を結び直し(ジョシーと)、周囲の理解ある人々に助けられて本心(本人格)を成長させていくことができた。その過程において、彼女を長い間苦しめていた、見捨てられ不安、恐れの感覚、自分自身の存在否定から完全に自由にされた。彼女の実体験を元に、霊的な癒しと解放について、もう一度考えてみた。

彼女には、日本社会に合わせ、適応するために作られてきた人格、いわゆる表人格とは別に、1歳にも満たない時期に親からの愛情を諦めてしまった本人格が存在していた。心の中にある、小さな牢獄のような場所に監禁され、押し込められてきた彼女の本音、本人格が明らかになるにつれて、今までどうやっても到達できなかった、心の一番深い部分での癒しと解放を体験できるようになったのである。

このことから一つの原則がわかる。いくら霊的束縛を取り除くために解放の手順を尽くしても、人に合わせるために作られた表人格を相手にしている限り、本当の解放、問題の解決はないということだ。埋もれた本心、おそらくは本人ですら意識していなかった、閉じ込められてきた本人格に光が当てられて、初めて本当の自由、愛を受け取ることができるのだ。なぜなら、ひきこもった心の中にあるさまざまな怒り、孤独、わかってほしかった、理解してほしかったという魂の叫びが、外に取り出されないまま要塞として残っているからである。事実、本人格が信じていた思い込み、偽りの価値観の背後には、必ず悪霊が関与していた。
写真3
もちろん、今までにやってきた霊的な解放、心の癒しの祈り(チェンジングライフ・キャンプやさまざまなインナーヒーリング、カウンセリング)が無駄というわけではない。表人格といえどもその人を形成している一部であり、自分自身を守るための思考行動パターンには罪も含まれているからだ。

問題は、その癒し、解放のツールによって、心の奥底の深みまで到達できていたかどうかだろう。もし、ある人の人格に表裏の二重構造がないのであれば、心を掘り下げた分だけ癒し、解放が進み、人生に劇的な変化がもたらされるだろう。しかし、本音の人格とは別に、社会に適応するために形成されてきた人格が存在していた妻の場合、表の作られた部分にいくら光が当たっても、より本心に近づくことはできるのだが、根底にある、間違った思い込み、偽りの価値観に届かなかったのである。

人格の二重構造をもつ場合、普段は表の人格で生きることになる。そして、自分の内にある本人格の存在に気づかないまま生きていることがある。しかし、本人格の存在を認めていようといまいと、愛されたい、理解されたい、本心で生きたいという心の欲求は生きていて、表面的な癒し、解放によってはその欲求が満たされないために、症状として、恐れ、不安、自分の存在否定のような苦しみを抱え続けるのである。

繰り返すが、解放ツール自体に優劣があるわけではない。すべて神が与えてくださった武器だと信じる。ただ、それぞれ得意分野があり、効果が異なるのだ。どの方法によっても、その人の人格に真の変化が起こり、キリストに似た者とされることが重要である。
写真4
私の体験からすると、個人の霊的成長、あるいは霊的解放において、一番重要なカギは、心が何によって支配されているかである。個人において、人の心は霊的戦いの最も激しいところであり、心に受けた傷と、愛によって支配されていない心から出る罪によって、敵の門(ハデスの門)=破れ口ができる。その心の問題(敵の侵入経路)の致命的要因こそ、服部さん、ジョシーが訴えている「親子の絆の喪失」であろう。

ひきこもり体質を持つ多くの日本人が、比較的生まれてすぐに本心を閉じ込めているという現実は何を物語っているのだろうか。よく考えてみると、非常に恐ろしい真実がある。私たち多くの日本人は、子どもたちから神が喜びをもってデザインされた人間性を奪い、人と人との愛の絆を通して成長することを阻み、まるで自分の意思、心をもたないロボットのような人間を幾世代にも渡って生み出してきたということである。初めてその恐ろしさをハッキリと知ったとき、私は悲しみと、ショックを覚えた。そして祈らずにはいられなかった。

ひきこもり体質をもった両親のもとで誕生した多くの日本人は、とてつもない心の負債を負って誕生したことになる。本来神が意図した家族では、クリスチャンであろうが、なかろうが、子どもが両親から、人間として生きていくのに必要最低限の安心感、家族愛を得られるはずである。得られるべきものがない飢餓状態、これが私たち日本人の国家的問題である。
写真5
失われた絆を結び直し、その人に本来備わっているべき感情、意思、コミュニケーション能力を取り戻させ、本心で生きる助けをするセラピスト。それは、破れ口に立つ者、仲介者として、個人の心と敵の間に立って、助けを求める閉じ込められた本人格を救出し、気持ちを弁護することではないだろうか。罪や傷が光によって明らかにされ、癒されていくにつれて、敵はもはや心に侵入口である門を築くことができなくなる。

日本語の新改訳聖書全体では、「心」という単語が1300回以上も使われているそうだ。どれほど神様が人の心に注目しておられるか、うかがえるのではないだろうか。「人はうわべを見るが、主は心を見る」(。サムエル16:7)「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:20-23)
「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」(申命記30:6)





2006年 8月 4日 「天パパの心を少し理解できたかなと思う」  ジョシー

写真1

 ひきこもりの治療をしていて、いくつかの発見をしたので分かち合います。この情報は日本のクリスチャンが何をしてきたかを知らせるとともに、どこを悔い改めたらよいかを啓示しているように感じます。みなさんにとっても、問題を整理する時となると思います!

(1)クリスチャンの潜在的ひきこもり治療をしていると、中の子どもが出て来たとき神を信じていないことがよくある(服部氏の治療の中でも同じ)。教会に通っており、メンバーにもなっているのに信じていなかった。

牧師たちの子ども、熱心なクリスチャンの子どもたちが途中で信仰を捨てる話は外の世界でよく聞いていたが、この事実に直面して分かることは、ひきこもりの表人格(人に合わせるために作り上げた世間体向け人格)がクリスチャンの振りをしていただけで、心は違っていたということになる。この情報に基づいて、親たちは子どもたちが自分の意思だけで信じたのかどうかを試した方がいいと思う。振りをしているだけかも知れない。親が恐いから、合わせていたということになる。

中の子どもが信じているケースでは、過去に自分で神を求め、信じた人であることで共通している。信じていないケースでは、親が熱心なクリスチャンで、虐待(言葉と態度、顔つき、むち)を通して半強制的に教会に行かされた人々がその範囲内にいる。親が熱心な信者に見せて教会と家とで生活が違っていた場合(偽善者)、すでにひきこもりになっている可能性が高い。

子どもの頃から親に本心(感情、時には訴え)を話せる子どもは、ひきこもっていない。そんな家族は宗教的でなく、自然体で生きているはず。ホントの信仰は自然体だと私は昔から信じている。作り物なんかではない。
写真2
 (2) 父親、または母親が「神の御名を使って、愛がありそうに、反抗できない子どもを脅して信仰を強要した場合(ネグレクトと言葉の虐待)、間違いなく潜在的ひきこもりの子どもを生み出している。子どもの心が苦しんで多重人格を生み出している場合もある。これは日本の教会の悲劇だ。聖書が与えているものでなく、共依存国家日本に流れる完璧主義、先祖と親を神に祭り上げる儒教思想からきていると私は判断している。

ひきこもりの子供人格の中に否定的な「思い込み」「悪魔の偽情報」を見つけている。(たとえばこんな例)

牧師は油注がれたリーダーなので逆らうと呪われる。
ダビデが発狂したサウル王に追われ逃亡しているときの発言「油注がれた方に手を出すことはできない。」から理論を展開する。リーダーが間違っていても、従わないと神に忠実と言えないと考える。これはカルトの発想。

私は言いたい。牧師は王様なんかじゃない。使えるしもべとしてのリーダーだ。イエス・キリストはモデルを示してくれた。人生は一度しかない。自分が一番満足できる信仰生活をする方がいい。

御心の選択について:苦しむ生活を美化する。物事を決定する時は、「困難な方」「難しい方」を選択すれば、間違いない。クリスチャンは幸せにならない方がいいと考えている。

「もし私たちが気狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。」(第二コリント5:13)
私たちが気が狂う相手は、神であって人ではないように思うんだけど。。。。

(3) 日本人全員まとめて変えることはできない。じみちな方法ではあるが、ひとり一人の心の本心に耳を傾け、太い信頼関係の絆ができるまで、「ネグレクト」されて対人恐怖に脅えている子ども人格を愛してあげる以外に道はないと思う。インスタントはない。ひきこもり治療によって、日本人の解放の不足分がすべて出そろったと私の周囲は喜んでいます。(ひきこもり治療は解放の完成を提供してくれた。)

<振り返って> 
JCMNのコーディネィターをはじめてから全国を回り、日本でセルが機能しにくいのはなぜかを疑問視したのを皮切りに、弟子養育の中に解放を重視するようにしました。霊的な束縛からの解放からはじまり、心の傷の癒しを加え、それをチェンジングライフキャンプでまとめました。でも全く変わる人もいるのですが、自分の教会を見ても、これ以上彼らの中に変化をもたらすことはできないという大きな壁にぶちあたっていました。

最近ひきこもり患者の中から治療を終了した人がぼつぼつ出てきました。また変化が起きているので証が広がっています。うちの娘が言いました。「お父さん、これで日本人の解放が総合的にできるね。足りなかった個人の深い部分の癒しが満たされたね。本心が解離してたんじゃ何やっても無理だったよ。」 

奥さんがひきこもり治療で癒されたスタッフの一人が言いました。「リバイバルのために霊的戦い、霊的地図作り、霊的束縛からの解放を追求しやってきたけど、結局誰とも絆がない日本人は、解離している人格を見つけてもらい、愛の子育てを受けない限り、時間はかかるけど外国人と同じスタートラインにつけなかったんだ。」(近いうちに、彼から現場の声をまとめてもらい載せるね。)

クリスチャンで治療が終わった人が、新戦力になってきているので、面白くなりそう!!神はいつも生きていて、確かにこの国を導いているよ。





2006年 6月24日 「ひきこもりと神の国」 楠葉キリスト教会牧師 遠藤明匡師

 ジョシーの口から「ひきこもり」と言う言葉が出るようになって久しい。「アイデアに富んでいるジョシーが、また新しい働きを始めたのだろうか。」初めのころの印象はそのようなものであったと思います。今年の初めにジョシーと会ってゆっくり話を聞く機会が与えられました。やがて彼の働きの全体が分かってくるにつれて、私は深い感動を覚えました。彼は神の国を、傷を持った1人の人の心にもたらすために、時間を割き向き合っているということ、そしてもう1つは日本という国単位の視点から、神の国が拡大されていくことを考えているということを知ったからです。

●神の国、セル教会の理解
私たちは神の国(イエス様がこの世に来られることによって始まった神の支配とその領域のこと)がイエス様の宣教によってすでにもたらされているとともに、それがやがて来る終わりの時に完成することを知っています。日本の宣教が福音による救いに力点が置かれて来たのに対し、世界のセル教会には福音による救いとそれに伴う神の国の拡大という視点が存在しているように思います。しかも、それは王であるイエス様による王権や統治という抽象的なものより、王であるイエス様によってもたらされた、より具現化された全人的な祝福というとらえ方が強いように感じます。しかもこの神の国の拡大は、国単位でとらえられているのです。

●神の国と福音宣教?社会奉仕の調和
教会は社会的な働きよりも福音の宣教に力を入れるべきであり、社会に対する奉仕や働きは教会の働きの中心ではない、というような受け止め方が日本にはあります。その結果、福音的な教会は福音宣教を、リベラルな社会派の教会は社会奉仕や様々な社会愛の活動をしていくとう対立が生じているのです。

しかしアジアのセル教会においても福音宣教と社会的な奉仕は調和を持って一つの教会でなされ、その結果、単に福音を語るだけの教会よりも多くの人々が救われているという現実が存在しています。救霊に熱心な教会は、それと同時に社会に対してキリストの愛を表すことにも熱心であるのです。

●神の国を国家レベルでとらえる
日本ではこの国家単位での神の国の拡大という視点をなかなか持ちにくいのですが、韓国には「民族福音化」というスローガンがあります。一つ一つの地域教会の成長や教団単位での成長以上に、民族としての、国家単位での神の国の拡大というビジョンがあるのです。「韓国の教会の発展は、国家単位での神の国の拡大というとらえ方が存在するようになってから急速に広まった。」と友人の韓国人宣教師は韓国教会の歴史を振り返りながら話してくれました。

先日、アフリカの教会をひとつにする働きに携わったユキさんと話しました。「アフリカの教会には国家単位での神の国の拡大というとらえ方が存在しているのですか?」という私の質問に「いいえ、大陸単位です。」という答えが返ってきました。「アフリカ大陸単位…!?」 それは私の想像をはるかに超えていました。

●神の国の拡大と国家的なニーズ
 「宣教学的な分析によると国単位でのキリスト教のムーブメントには、その国の政治的な危機や困難、国家的な問題や必要が深く関係している」と、ある本に記してありました。すなわち国家的な単位で神様の働きが展開していくときに、神様は国家的な単位での問題を用いられることが多々あるということです。

ジョシーは日本の国家的な危機を「共依存と引きこもり」と見ているようです。その見解の信憑性は、1人の牧師の分析によるものだけでなく、今はキリスト者である心理学者の服部雄一氏が協力者として存在していることのゆえに高いといえます。服部氏のような人材を日本の教会との関わりに導いてくださった神様の不思議な計画を感じます。

さて神様は2つの癒しの方法を与えられました。一つは超自然的なもの、もう一つは一般恩寵における医療です。この二つの領域にも対立ではなく調和というとらえ方が必要ではないでしょうか。医療関係者のクリスチャン人口が少ない日本では、教会と医療が協力し合ってより良い結果を出していく、という段階にはなかなか到達できないでいます。

最新の心理学や精神医学等の学説が、キリスト教的な視点からも整理され、キリスト教理念の愛に基づいてアプローチされることは大切であると思います。たとえば大阪にある淀川キリスト教病院の地域における影響力の大きさを事例として見るならば、うなずけるものがあるでしょう。

そしてそこでは素人ではない、クリスチャンの心理学者や精神科医、臨床心理士、カウンセラーとの協力がとても重要なものとなってきます。それはその働きをバランスのあるより健全なものとしてくれるばかりではなく、人の心を扱うときに責任の所在を明確にしてくれるからです。

日本がひきこもりという危機的な問題を抱えているということは、国家単位でのニーズが存在しているということです。そして教会が服部氏の指導の下にこの問題に関わるなら、多くの救われる人が起こされてくるでしょう。なぜならジョシーに聞いたところでは、引きこもり者の回復の過程においては、健全な受容の共同体が必要であるとのことだからです。成熟したセルはこの受容の場、居場所を提供します。

●神の国は人の心の痛みに仕える事によって
国家の単位で神の国の拡大を考えるとき、私たちはプロジェクトや方法に目がいきがちですが、実は大きな視野で神の国の拡大に携わるということは、一人一人の人間の心の傷や痛みに奉仕することを意味しているのではないでしょうか。今のジョシーの働きを見ているとそのように思えてきます。そして、それは、この地に神の国の到来をもたらすとともに、一人の人間に仕えられたイエス様ご自身の生き方に相通じるものでもあると思います。




2006年 4月 27日 「イエスと日本人」 特別投稿 服部雄一

イエスが日本に来るとしたらどういう形で来るかしらと、私は空想する時があります。成田空港の専用機から出迎えの群衆に手を振り、報道陣に囲まれて到着するとは思えません。イエスは裏口から入るようなやり方で日本に来るはずです。
写真1
日本人の前に現れるイエスは貧しい大工の息子です。東大出のエリートではありません。学歴は高卒あるいは高校中退かもしれません。神学校も卒業していないと思います。おそらく、無精ひげでよれよれの服を着て、ホームレスのような「うだつのあがらない男」に見える可能性があります。

しかし、そのホームレス男は人の心を惹きつけます。「悔い改めなさい」と語るその男は社会的に弱い立場の人に親切です。政界や財界の指導者を訪ねるよりも、暴走族の若者やヤクザと親しくなったり、新宿歌舞伎町の売春婦を助けたりします。

彼は人を癒す力をもち、病気の人を治したり、生きる気力が無くなった人たちを元気にします。その男のうわさを聞いたサラリーマン、弁護士、医者、そして政治家までもが会いに来るようになります。

写真2
ホームレス男に人が集まるにつれて、日本社会の指導者たちが動揺します。特に神について大胆に語るので、キリスト教徒たちが動揺します。キリスト教のリーダーたちは有名な神学者を集めて論争しますが、その男はことごとく論破します。彼の言葉には権威と力があり、聞いている人の心をうつところがあります。

しかし、その男の影響力が強まるにつれて、やがて彼の死を望む人たちが現れます。ある日、その男は右翼の若者に刺されて殺されます。日本に磔の刑はないから、これが彼の死に方になるでしょう。その男が殺されると、彼に従った人たちは蜘蛛の子を散らすように逃げるのです。


暗殺を指示するのは誰でしょうか。財界のリーダー、政治家、それとも創価学会?違うと思います。その男を殺すのは、実は、神の子を待ちわびるキリスト教徒たちだと思います。自分を正しいと信じるキリスト教徒がその男を一番憎むからです。写真3気分を悪くしないで考えてください。このストーリーは人間の本質をよく表しているのです。私たちは聖書のパリサイ人や律法学者をひどい人たちだと思います。自分は絶対にそんなことをしないと確信しています。

でも、イエスが日本に来たとしたら、私たちも2000年前のユダヤ人と同じ過ちを犯す可能性があるのです。自分は完全だと信じる傲慢な人間は、神の子を受け入れることはできません。

日本人の前に現れたイエスに気づくのは本当の信仰をもつ人だけです。彼らは普段からイエスのことを考えているので、その男が神の子であることを見抜きます。あなたは見抜けますか?私は自信がありません。

彼は物事の本質をついた、こちらが聞きたくない言葉を口にするので、「なんだ、こいつは。生意気なことを言いやがる」と苦々しく思うでしょう。彼の静かなすべてを見抜くような目に憎しみさえ感じると思います。
写真4
新約聖書には「神の子が来るから準備しなさい」というメッセージが至るところにあります。それは人間が罪深く、不完全で過ちを犯しやすいからです。

イエスを殺すような罪を避けるには、ふだんからクリスチャンらしく行動しなければなりません。日曜日に2時間だけイエスを賛美して、普段の生活に戻ると人の悪口を言ったり、あくせくと働く人たちを、私は「日本教キリスト派の信者」と呼んでいます。

彼らは神よりも世間を恐れ、神の戒めを無視して人間の教えを守っています。「この民は口先では私を敬うが、その心は私から遠く離れている。彼らが私を拝んでもむだである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから」(マルコ7章6−7)という言葉があります。これは偽善の戒めです。

欧米のようなキリスト教の伝統がない日本のクリスチャンは、イエスを賛美するのではなく、自分自身を見つめる時が来ています。




2006年 3月 12日 「神は時計の針を初代に戻そうとしておられる」 ジョシー

去年の9月、私は米国のテキサス州ダラスで開かれたチャーチ・プランティング・コングレスに日本の代表として招かれた。ビル・ブライト氏の遺言であった、100万教会増殖を世界規模で実現させるため、発起人の中心人物であるジョン・マックスウエル氏、ディビッド・ディビス氏が世界中からメガチャーチの牧師たちと家の教会運動の指導者たちを招いたものだった。

会場にはクリスチャン関係だけでなく、一般メディアもいくつか取材にきていたのを見て、米国全体がこのことに関心を持っていると痛感した。

私をここに推薦した人物は友人のニール・コール氏(オーガニックチャーチで驚くべき教会増殖を継続させている)であるが、彼以外にもたくさん神が世界中で今日起こしている小さなコミユニティ(教会)を再生産していくムーブメントの指導者たちが来ていた。

3日間のコングレスは、全体のメッセージを良く知られたメガチャーチの牧師がし、分科会のほとんどは家の教会増殖運動の指導者たちが担当した。

主催者側はあらゆるかたちで教会増殖運動が進み、100万教会増殖を実現させたい様子だった。そこで確認できたことは、米国では、従来の既存教会と同様に家の教会がすでに市民権を得ていることだった。メディアの関心の高さはそれを現していた。


その時、至る所で聞いた話題が、「Revolution」(ジョージ・バーナ著)出版を祝福する話題であった。

ジョージ・バーナ氏が米国のクリスチャン分布をリサーチした結果、2000年の時点で米国のクリスチャンの3割が既存教会には属していなかった。

しかも、その多くが「完全なる献身の生活を求め、人生のすべての瞬間を聖書の原則の光をもとに見て行動している人たち。すべての考えと行動を神に栄光を与えるために動いている人たち。」であった。

この人々は形式だけで生きている既存の教会という枠の外に生きているクリスチャンたちで、彼はリサーチの結果2025年までには、この人々の数が既存教会の信者を上回るようになり、既存教会はキリスト教会全体の30%近くまで減少すると見ている。ジョージ・バーナ氏は、この人々を「革命家」と呼び、彼自身もその仲間に入っていった。

「革命家たちを理解するカギはどの教会に出席しているかではなく、完全なる献身」である。ただ既存教会に躓いたという類のものではなく、より新約聖書に近い信仰の本質を求めた結果であり、神ご自身も世の終わりに向けて御自分の群れを初代的要素に戻しておられると言わざるを得ない。

なぜなら、私はジョージ氏が革命家と呼んでいる指導者たちの何人かを知っているので、このように宣言できる。彼らに宗教的要素は乏しいが、神の言葉に対する忠誠心には目を見張るものがある。

あなたがこの書を読んで、どう反応されるかは分からない。しかし、ジョージ・バーナ氏が無理矢理この社会現象を作り出したわけではなく、彼はアメリカ社会の中に現に起きている事実を明らかにしただけにすぎない。

あなたは、逃げずにこの真実の情報と向き合うべきではないだろうか?なぜなら米国に起きていることがすでに日本にも静かに流れてきているからだ。私も真実を求め続けて生きたいという立場から、ジョージ氏が著書の中で書いているひとつの重要要素を強調したい。

神は、「人々を教会に集める時代から、ひとり一人が教会になる時代」に向きを変えておられる。つまり今の終わりの時代、神はご自分を求めるしもべたちを、会社経営的な教会から、生き方重視の信仰生活へと導こうとしておられるに違いない。既存教会がいいか悪いかの議論ではなく、本物で生きることの飢え乾きが日本を覆うであろう。背後に神の計画を感じる。





2006年 1月 29日 「罪責感」ヨハネ21章 ジョシー

「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか?」 ペテロはイエスに言った。 「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存知です。」

<失敗を責めない>写真1

ロッテを31年振りの日本一に導いたボビー・バレンタイン監督は、選手がミスをしても、責めないことで有名だ。 選手はすでに自分で自分を責め、自己反省しているのに、どうして責めることができようか?

イエスに付き従う筆頭弟子でありながら、3度も主人を裏切ってしまったペテロは、ひどい罪責感に悩まされ、自信をまったくなくしていた。

彼は他の6人の弟子とともに、真夜中の湖に舟を漕いだ。ベテランの漁師であった彼もこの日は何も取れなかった。 「う〜〜〜む、何をやってもうまく行かん・・・。」

そこにイエスが、憐れみの御顔を持って、岸辺に立たれた。

写真2<責めるのでなく、自分で気付くこと>

ペテロの状況は、最初にイエスの奇跡を見たときと同じ設定となった。 「子供たちよ。食べる物がありませんね。」「舟の右に網を降ろしなさい。」

大漁の魚が網に入ったのを感じ取ったとき、 またもやペテロは自分の罪深さを示されて、上着を着て湖に飛び込んだ。 なぜ上着を着たかは不明だ。 イエスは岸辺で、朝食を用意して待っていた。

私は信じる。これは奇跡で生み出した魚とパンではなく、買ってきたか、自分で料理された物だと・・・・。炭火も奇跡ではなく、苦労して自分で火をおこされたと・・・。一時間ぐらい火をおこすのにかかるだろうか? そのとき、弟子たちは、仕える主人、イエスを再び体験した。

<ペテロかパウロか?>
写真3
最近気付いた。 新約聖書は、たくさんの人々が登場するが、結局、ペテロとパウロがメインであると。旧約聖書と同じように、一人のリーダーにカメラを特に向けながら、私たちに教えている。私は学者ではないので、パウロよりもペテロが分かりやすい。

それで、ペテロを自分の名前に置き換えた。あなたが学者ならパウロに、普通の人ならペテロに置き換えてみてはどうだろう? 福音書のペテロは、人間味いっぱい。普通の我々が共感できる。失敗ばかり。

心理学者の友人の服部雄一氏が、日本人の心の奥にあるものは、「罪責感」だと教えてくれた。ほとんどの人の心を探って行くとき、私もそれを認める。中にあるのは、恐れであり、「罪責感」「罪悪感」だ。あなたにも、心の深いところに、今もそれがないだろうか?

<福音の本質を生活の中に>

故に日本人には「キリストの分かりやすい赦しの福音」が必要だ。 食事の後、罪責感に苦しむペテロにイエスは個人的に近づいた。 「ヨハネの子シモン。・・・・わたしを愛しますか?」 「・・・わたしがあなたを愛することは、あなたがご存知です。」
写真4
リーダーが自分で深く反省している人を裁くことは正しいだろうか? イエスは知っていた。 ペテロも「イエスが私を知っている」と知っていた。 イエスはペテロの心を知っている。

「反省している。自分を責めている。自分の力ではどうにもならないと知っている。」 「愛する」という言葉も、日本人には「好き」の方が分かりやすいと、最近は文脈化している。

「私があなたを好きなことは、あなたがご存知です。」 ペテロが立ち直る為にしたことは、叱責することではなく、愛することだった。(叱責は高慢であったときよくされた。) ペテロの扱いが、私への扱いだ。 安心しよう。 イエスはこういう方だから。このように弟子を立て上げる方だ。 弟子訓練とはこれだ! だから、私たちもイエスのようにしよう!


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